対話の否定から

神学部時代の恩師の言葉を思い出す。「対話とかエキュメニカルとか簡単に言うな。もしそれでも対話を望むというのなら、相手と刺し違える覚悟で向かい合え。」。当時はちんぷんかんぷんだったが、十数年経ってその重さを噛みしめる。
当時の恩師は今のわたしよりも若かったが、宗教哲学や組織神学の世界における対話の不可能性を思い知らされていたのかもしれぬ。
とはいえ、そもそも対話の不可能性という辛酸を舐めるには、それでも対話のリスクを犯さねばならず、他者を侵犯する危険、他者から揺さぶられ毀される痛みを負わねばならぬのだ。
恩師の対話の否定は、直接的な肯定以上のなにかを孕んだ弁証法であった。