閉じた環

議論していて、むかっと来ることもあるだろう。相手の意見がどうしても受け入れられない、というような瞬間が。だが、そこで問われる人間性もあろう。言葉だけとはいえ、復讐の連鎖みたいなことをやっていては、たぶん現実の紛争がそうであるように、一切なにも先に進まない。わたし自身の課題として。
ツイッターや、さまざまな文書での議論は、相手の顔が見えない。「敵」を抽象化することで、憎しみも蒸留され抽出され純化され、ますます鋭くなってしまう。相手の表情や生い立ちといった不純物、これこそが実は大切なものなのだ。議論のなかで、もちろん議事そのものの抽象性は確保されねばならないが、誰がどのように、どのような文脈で、どのような思いをもって発言しているのかという不純物、この不純物の具体性に思いを馳せることの重要性。前任地で、地方の小さな教会同士で、出身の神学校も違う者同士喧々諤々やりあいながら一緒に仕事をした者として、実感する。
今、会堂守として都会の大きな教会に住み込んでいる。他の教会との交流はまったくない。経済的にも物理的にも、他に頼らずともやっていけるからだ。それと、他との衝突にうんざりし、交わるのが面倒だからだという歴史的背景もあるようだ。
この教会自体を否定するつもりはない。自立した教会の、独自のシステムによいところもたくさんある。しかし他との衝突も含め、他から受ける刺激が一切ないこと、閉じた環のなかで安息していることに、やや違和感を覚える。おそらくこういう場でこそ、環の外なる他者への抽象化された敵意が燃え上がる。