配慮と感じさせない配慮

下北沢の教会で行われたテゼー礼拝に参加。暗い礼拝堂に十字架のライトアップとろうそくの明かりだけが灯され、あぐらをかいて座るも正座するも体操座りも、教会ベンチに腰掛けるも、まったく自由。出席の名前も、べつに書いても書かなくてもよい。
正面に牧師が居るのではない。牧師も、みんなと同じ方向を向いてあぐらをかいて座り、ギターで伴奏し、みんなでごく短いテゼー共同体の讃美歌を繰り返し歌う。また、深い沈黙の時もある。ただ黙って、暗闇のなかに身を置く。
牧師の説教もある。ただし、まるで独り言を語るように、人々よりはむしろ十字架のほう、みんなが見ているのと同じ方向を見ながら語っている。それでいて、しっかりと声がしみわたってくる。
真正面の講壇から、会衆に向かって高々と説教しているのに、まるで独り言にしか聞こえず、見事に聴いているわたしたちの頭の上をスルーしてゆくような説教もあるものだ。それとは対照的に、会衆のただ中、隅っこに座り、独り言のように語る説教が、高邁なそれというよりはまさに「語りかけ」となる瞬間を味わう。
テゼーの讃美歌はどれも短い。それを繰り返し繰り返し歌う。もちろん、歌わなくてもよい。ただぼんやり聴いていてもよい。暗闇に光るろうそくたちや十字架を眺めながら、重たいものが背中から降ろされるような、ほっとした気持ちで、ふと涙ぐんだ。
円形に座ることがよいとは限らない。円形に座ると、みんなの視線がぶつかり、そこに緊張が生じ得る。今日の礼拝の座り方は、浅いV型。また今日の礼拝のように、コンサートやクラブのようにリラックスできるのは、照明が暗くて、自分がごそごそしているのを他人から気にされる心配がないからだ。
他人の視線を気にする必要がなく、さりとて個室のような孤独感もない。誰からも自由であり、しかも神の御前に「いっしょに」座っている安らぎもある。テゼー礼拝のよさを再確認したし、牧師のさまざまな配慮の仕方を学ばせて頂いた。