ロリータ・コンプレックスとロリコン

亀山郁夫訳、ドストエフスキー、『悪霊 別巻「スタヴローギンの告白」異稿』、光文社、2012を読み始める。「失われた「告白」 ドストエフスキー『悪霊』第2部第9章のゆくえ」を、心躍らせつつ読み終える。
「告白」には、ドストエフスキーが最初に書いた原稿をそのままゲラ刷りした稿、彼がそれに詳細に書き込みをした稿、妻のアンナが20世紀に入ってから清書した稿が現存するという。しかも前二者については、一つの現物を、書き込みを無視して印刷だけを読んだものをゲラ稿、書き込みも読みとったものをドストエフスキー校訂稿と見做しているらしく、現物としては二種類が現存しているとのこと。さらに、ドストエフスキーの書き込みの入った現物は15頁目が失われており、アンナの稿は後半がないらしい。要するにどれも完全な原稿ではないと。この現実がなんとももどかしく、しかも面白い。聖書学によく似ている。聖書も「原稿そのもの」なんて現存しておらず、写本同士の比較で推理するからだ。
比較作業そのものは専門家にしか出来ない高度な作業だが、そのプロセスをこのように論文ないし解説にしてくれたものは、わたしのような素人が読んでも本当に面白い。テクストというものの不思議さ、その奥深さを味わわせてくれる。
ドストエフスキー存命当時「スタヴローギンの告白」がとうとう雑誌連載の際にも刊行本にも掲載されなかったこと。そこに描かれる少女の凌辱「と、読みとれる部分」が問題になったこと。ドストエフスキーロリコンだったというスキャンダルが囁かれたこと。彼が脚フェチだった可能性のあること。彼自身露悪的な話題を好んだこと。どれも興味深い。
若桑みどりの著作を読んでいた時も思ったが、あらためて思うに、たとえば女性のヌードが異性愛志向の男性によってモティーフとされたとき、「純粋な美」というような言説は意味があるのかと。欲望の眼差しのリアルさ、見る人によっては嫌悪感を覚えるような生臭さも含めての作品性なのかもしれない。
以前ある展覧会でルイス・キャロルが撮影した少女のヌード写真が展示されていたが、「性的な意図なしに」ということが強調された解説に、かえって失笑した覚えがある。性的な欲望との葛藤も含めて『アリス』が出来たとしたら、そんなに悪いことなのか。
芸術とは、つねに欲望からクリーンで、「純粋」でなくてはならないのか。もちろん「純粋」な芸術が皆無だと言いたいのではない。そういうものもあるはずだ。とはいえ、汚らしい欲望のリアルなうねり、それにともなう作り手自身の苦しみから、結果としてすぐれた作品が生まれることもあろう。
澁澤龍彦の『少女コレクション序説』とか大江健三郎の『死者の奢り』を、「純粋に」読み味わうのは、わたしには難しい。「それはあなたが不潔な心で作品に向かっているだけだ。芸術に向かう態度ではない」と指摘されたら、「そのとおりです」としか答えようもないけれど。