絶対と相対

ときどき、「憲法第9条に賛成か反対かではない。神以外に絶対はないのであり、憲法も変り得るから。」というノンポリ的な言葉づかいを牧師から聞くことがある。後半の「神は絶対、憲法は相対」については、信仰の立場からはたしかにそうであろうが、それは「晴れのときには雨は降らない」と言うようなもので、あまり意味がない。
神が絶対だというなら、そりゃ、人間の世界で神なみに絶対なものなどないだろう。だからといって「憲法も変り得る儚いものにすぎない」というならば、平和も人権もなにもかも儚い。キリスト者にとって、世界はすべて儚い。儚いのだから、関わる必要もない・・・・
仏教で「空」が語られるとき、いずれに重きが置かれたのか。すべてが空しいので、関わる必要がないということか。それとも、すべてが移ろいゆく空しさをはらむだけに、その一瞬に深く生きようと自覚することか。コヘレトの言葉の「空しさ」から、どこへと出発するのか。