『Ministry』2012年春号を買う

上司から頼まれた今年分の教団年鑑とキリスト教年鑑を買いに、銀座の教文館へ。そしてわたしはわたしで、待ちに待った『Ministry』13号と、赤木善光『イエスと洗礼・聖餐の起源』を購入。
赤木先生の本は、以前彼が道後のユースホステルで行った講演に前後した彼の研究を、きちんと書籍化したもののようだ。あの当時、80歳を過ぎた彼が、彼にとっては専門外の領域である聖書学に果敢に取り組む姿に感銘を受けたものだった。食事の時「君も自分の考えを本にしたらいい」と言ってくれた。
『Ministry』は、貪るように殆どの記事を読んだ。とくにベストセラー『ふしぎなキリスト教』をどのように受け止め、どのように答えるかという部分は、夢中で読んだ。吉田氏のように「間違いだらけで話にならない」という評価もあったが、おおむね対話的な応答だった。
そう、対話と言えば、記事の中で『ふしぎなキリスト教』への肯定的な評価として、橋爪氏と大澤氏の対話形式が評価されていた。教会がキリスト教を語ると、どうしても「教える」式になることと対比する言及もあった。しかもなお、教会が堂々と信仰から語っても面白いことが言えるはずだという自信も感じられる記事であり、『ふしぎなキリスト教』に媚びているような感じはまったくなかった。雑誌と言うインパクトが命の媒体で、短い文書量であれだけの応答ができるというのは、さすがだと思った。
不勉強で知らなかったが、越川氏による礼拝と遊びとの共通点の指摘にも、膝を打つ思いだった。遊びが何かを目的にするのではなく遊びたいから遊ぶように、礼拝も途中経過、ツールではなく、それ自体が目的であるという。今ちょうどウィトゲンシュタイン言語ゲームに思いを馳せていたところなので、これは面白いと思った。礼拝は○○のため、と、下手に形而上の難解な目的論をぶつのではなく、礼拝自体がもう遊びじゃないか、というダイナミックな論。それは同誌掲載の田晴彦氏の礼拝音楽論にも通じているのではないか。礼拝がそれ自体を目的とした神との戯れである以上、それを豊かにする音楽がどれほど重要か、と。
加賀乙彦へのインタビューも、素直で大胆で、これだけで伝道トラクトになりそうな内容。湿っぽさがない。「教会へ来いよ〜」という湿っぽさが。そういう湿っぽさと無縁で、しかも彼の濃厚な宗教体験が簡潔に語られる。彼の本を読みたいと真剣に思わされる。