顔の交通

昨晩は夜遅くまで大学時代の恩師におつきあい願い、ツイッターで「対話」について対話させていただいた。対話は、論述の中身によるのか。それとも、身振りや顔つきといった、相手の厚みによるのか。もちろん二者択一ではないことは恩師もわたしも承知の上で。
赤木が著作のなかで荒井献らの出生にまでこだわっていることは、人によっては不快感を覚えるだろう。相手の論を客観的に論じず、相手のプライバシーに踏み込むのかと。それが学問かと。ふつうの学問ならそうだろう。ただ「神学」が信仰というきわめてプライベートなものも含みこんだものであることが問題なのだ。誰かが自身の信仰に関わる何かを、雑談ではなく本気で論じているとき、そこには自身の顔が顕れる。顔にある逼迫した状況ゆえに、論が極端になったり、顔ぬきには「?」になったりする。昨晩、恩師が強調していた顔の問題は、まさにそのことであったと思う。
初対面ないし紙面上での議論の際、マナーとして顔への想像力が先にあるのか、論に納得した上で初めて顔への憧れが生じるのか・・・・それは鶏と卵の優先問題のようなものだろう。だが、二者択一「ではない」ことは間違いない。恩師と赤木とは、口調は全く異なるが、そのポイントは同じところを突いていると信じたい。楽観的に過ぎるかもしれないが。