録画しておいた『日曜美術館』の「常田健」の回を観る。黙々と農民の生活を描く。筋肉の、静かで力強い動き。また、母が赤ん坊を抱き上げる絵があるのだが、赤ん坊の短い手足の指と、一輪大きく開いたひまわりの花びらとが、同じリズムになっている。計算なのか衝動なのか。いずれでもあるのだろう。
そうした膨大な地味な生活の絵があるからこそ、米軍のジェット機飛来にしゃがんで耳塞ぐ子どもたちや、「核」という字に×印をつけたり、「嘘つき」と書いたプラカードを持った群衆を描いた幾点かの絵が、抉るような力をもって観る者に迫る。地味な生活を描き続ける画家、自らも農民として生きた彼が描くゆえに、それは観念的なプロレタリアート芸術ではない。
自分が聖書から何かを学ぶときに、トピックを探し回る。そのことを、考えさせられる。地と図。数点のトピックがあるということは、何百何千の地味で目立たない信仰の日常が、聖書のなかにあるだろう。説教において美しい図を描きだすことも大切だが、地を地のままに人々と共有できたら、もっといい。
それが簡単なことではないこと、アタマだけではなく生涯をかけなければそんなことはできないということを、常田健という人が教えてくれているような気がする。