だってそうじゃないですか、の、だって

“私は勿論、どんな人間にも両親があると信じている。だがカトリック信者は、イエスには母親しかなかったと信じている。また、ふた親なしに生まれる人間も存在すると信じて、一切の反証を受けつけないひともいるかもしれない。カトリック信者はまた、ただの餅でも或る状況のもとではまったく本質を変えてしまうと信じる一方、あらゆる事実はその反対を証明すると信じてもいるのだ。だからムーアが、「これは葡萄酒であって血ではないことを私は知っている」と言えば、カトリック教徒は反駁するかもしれない。”ウィトゲンシュタイン「確実性の問題」二三九
『確実性の問題』を読んでいて思うのは、自分に身体があることを知っている、みたいな、それ以上検証できない、確信の領域にあるものがあるということの新鮮さだ。そしてまた、人が行動によってしか示すことができない、検証することはできない、というか疑う事に意味がない、このような領域について議論することはきわめて難しい、ということだ。だから、ウィトゲンシュタインの議論は、倫理に関する議論に近い。「わたしはどこででもいつでも人を殺していい」という命題に、そうではないことを証明するかたちで反証するのはたぶん無理だろうが、そもそもそのような命題が文脈上成立しないことを、彼は教えてくれているようにも思う。“それに反して誰かが、まったく場違いなところで、決然たる身振りと一緒に「やつを倒せ」と叫ぶとすればどうか。彼の用いた表現(と語気)について、われわれに馴染みのパターンであるとは言えるだろうが、当人がどんな‘言語’を語っているのかは全く不明というほかあるまい。”同書、三五〇の一部。
先の二三九の話でいえば、信じることと知っていることとの難しさ。これは、地球が150年前にあったことを疑うことや、自分に腕があることを疑うことの意味についての議論のなかでの話である。要するに疑いようがない、その命題に文脈がない、議論のしようがないような話についての。
おととい大学時代の恩師と「対話」について対話したときのことを思い出す。恩師が「もはや神学的議論は不可能。そうではなく顔を見せあうこと」という趣旨を語っておられたのだが、ここで言う神学的議論とは、もしかすると、わたしは腕が二本だと確信しており、相手は三本だと「わたしとまったく同じように」信じている場合の議論をさすのかもしれない。
ウィトゲンシュタインは、しばしば容赦なく「錯乱している」という言葉を使うが、たしかにこのような種類のすれ違いなら、互いが互いを錯乱していると結論するよりほかはないように思われる。しかし、相手が錯乱していないこと、相手がまして宇宙人ではなく、人間であることを確認すること。互いが同じ言語ゲームに立とうとしていることを宣言するためには、その種の仮設の議論ではなくて、身振りや顔によるコミットメントの誓約、確信の表明しかないのかもしれない。わたしはあなたを対等な相手と見ているのです、という。