沁み込んでいるもの、体得していないもの

法華経』の「薬草喩品」を読む。さまざまな薬草、灌木、喬木、大樹が多様に育つが、それを育てるのは同じ水、空を覆う同じ雲から降ってくる水であると。読んでいて、インドの熱帯雨林が、あるいは中国やアジアの山々が、そして日本の雑木林が目に浮かぶような美しい描写。
また、鳩摩羅什訳にはなくサンスクリット語原典のみにあるという、盲目の人が見えるようになるたとえ、さらに太陽や月は誰に対しても照るたとえ、また、見えるようになったからといってこの世界の秘密のすべてを知ったのかという諭しは、ヨブ記やコヘレトの言葉、箴言のイメージを連想させる。
いずれにせよオリエント趣味、奇矯好みだと言われれば反論のしようもないが、自分はやはり、散歩していてお寺の鐘の音が聴こえればほっとするし、その苔むした階段を上るとき、その匂いやひんやりとした空気に落ち着きを取り戻すような種類の人間である。それはキリスト教の教理や教義では整理できないなにかである。
だからこそ、自分は意識してキリスト教の教義学や組織神学を学ぶのだと思う。そうでないと、安易に自然神学に流れて行ってしまうからだ。あるいはヒックのような宗教多元主義に。