大事なことを、端に忘れていたような

最近、自分がどんどん、傍流というか、周辺的なことに関心を抱きつつあることに気づかされる。この衝動は、自分では抑えられない。たとえば、以前は友人が取り組んでいる女性の同性愛というテーマなど、「まあいろいろあるわな」という程度に通り過ぎていた。しかし女性が周辺へと追いやられ、しかも同性愛となるとますます周辺的と扱われる歴史。だが、その周辺的であることがむしろ、中央や主流に目をおく場合には決して気付かない美しさや逞しさや、そしてなにより新しいパラダイムの関係性を含んでいることを知るに至り、わたし自身もフェミニズム的なもの、また、もともと好んで読んだ澁澤や稲垣、ジュネにおける同性愛に再照準を当てるようになっていった。その関心が高まった時期は、やはり自分が無任所教師になった時期と重なるのである。自分が当たり前と思っていた職務や生活、他者との関係性が、すべて「かけがえのない」もの、すなわち壊れたらもう元には戻らないものであることを知ったとき。「当たり前」などというような事柄は、おそらくこの世には存在しないということを味わった時である。さらに、東日本大震災を契機に、それまでの価値観がことごとく覆されてゆくのをまざまざと見せつけられたこと。男性的なロゴス(ファロス的と言うのだったか)の崩壊を見て、「やった、フェミニズムの勝利だ」なんて思うフェミニストはいなかっただろう。そういう勝敗の問題ではない、もはや勝ちと負け、中央と周辺というような視点ではなにも解決しないことを、多くの人が知っただろう。わたしが「周辺的なものに目を向ける」というとき、だからそれは「かつて、ないし今のところ」周辺的であるように扱われている、という意味である。
「えん」を「ふち」と読む。すばらしい。RT虚空山彼岸寺@higan_ji 新着記事: この世界の「縁」を生きていく - 日日是好日 http://dlvr.it/1cwc56#彼岸寺