連れ合いと教義学の話をしていた。教義学の中身というより、なんで教義学が要るか、みたいな。熊野義孝の『日本キリスト教神学思想史』を読んで、当時自分がいた教会や周辺の教会に重ね合わせていたのだが、教義学というか教理がぼやけると、どうしても「いい牧師」にすべて頼らなければならなくなる。
いい牧師の、いい説教。言い換えれば、牧師が「悪い」と見做されたらそれだけで、教会は大きく傾く。初めてカトリックの神父さんと親しく接したときの驚き。彼はスペインから来ていたが、達者な日本語で言った。「世界中どこでも同じ礼拝です」。もちろんそれぞれの国や地域の個性はあるだろうけど。
カトリック聖公会では、数年ごとに司祭が交代してゆく。だから、カリスマ牧師にみんながついていったり、無能な(と判断された)牧師に幻滅して教会を去ったり、というリスクが少ない。それを支えるのはしっかりした教義の自覚と、そこから展開される教理だろう。牧師の人柄に左右されるのを出来るだけ防ぐ教会の在り方として。それが興味の出発点だったかもしれない。今はどちらかというと、教理的立場の異なる者同士の対話に関心がシフトしているけれど。
そういや赤木善光の本には、植村正久が人事の怪物でもあったこと、そのことが後世に禍根を遺したことも書かれていた。いつの時代にも干される馬鹿は居たってわけだww
くそー、日曜日は5時起きなんだがな。眠れん。
たぶん多くの牧師が道半ばに辞職したり信仰から脱落したりしていったんだろうな。誰にも知られることもなく。
エスは人間、模範者で、復活はなかった、という牧師と、イエスはキリストだ、復活後昇天したという牧師では、おそらく教理について何らかの合意に達するのは不可能。
しかしそれ以前に、赤木の指摘するとおり、ルサンチマンや怨念が今の対立の根源だ。わたし自身、怨念を抱く一人である以上、なんだか絶望的だなあ。