完全な者となりなさい

次の日曜、ずいぶん久しぶりに子どもたち相手にお話をする。マタイ5:43−48。末尾の「完全な者となりなさい」の「なさい」の部分が、エセステ、つまりエイミの直接法未来二人称複数形になっている。しかしたまたま参照したNIVだと"Be”であり、口語訳も新共同訳も岩波も「なさい」だ。
ヘブライ語では十戒がたしか未来形であり、それを「だろう」ではなく「なさい」と命令として訳していたから、それと同じなのだろうか。けれども今回、44節ではアガパテとかプロセウヘステというように、二人称複数の命令形だ。他の節も、否定+不定形で「するな」とか、やはり命令形とか、そういったもののようだ。未来形で命令というのを探しきれなかった(見落としているかもしれない)。
命令形だろうが未来形だろうが同じ命令なのであって、たんなる表現のあやなのかもしれないけれども、天の父が完全「である」エスティンというように現在形であることと対比的な表現だとすると、やはり、地上のきみたちは今は完全ではないけれど、未来には必ず完全になるんだよ、今すでに完全である天の神さまのように、と、そんなふうにイエスさまが語りかけてくるような気がする。
NA27の同箇所も参照してみたが、とくに異同の欄外注はない。聖書学者にとっては、この未来形を「完全な者となるだろう」ではなく「完全な者となりなさい」と訳すのは当たり前なのだろう。けれども、敢えて未来にこだわりたい。未来にこだわって、そこに子どもたちの未来を重ねてみたい。
完全な者になるってなんなのかな、と、ふと気になって調べ始めたら、やたらと時間をかけてしまった。これだからひま人は困る(苦笑)