書いた途端に固定化されて

“この理由のためにそれは愛の鎖であると呼ばれる。なぜなら、そ​こにおいて我々すべてのものに共通に使用されるために聖別された​パンはいくつもの穀粒からでき、それぞれを区別することができな​いほど一緒にぴったり混ざっているように、我々のあいだは解きが​たい友情によって結ばれなければならない。”カルヴァン「聖晩餐​について」波木居齊二訳
これは、もしも信徒から「聖餐ってどんな意味があるんですか?」と聞かれたときに、かなり説得力のある比喩ではないかな。
しかしまた一方で、カルヴァンは、神の前に自分自身の不完全なこと、罪深いことを痛感しつつ聖晩餐に与ることも勧める。そして同時に、「罪深いから聖餐に与る資格なんてないんだ」と落ち込んで陪餐を拒否することや、「不完全な奴は与る資格なし」と陪餐から排除することも間違っているとする。
ここには、わたしの求めている聖餐の姿がある。わたし自身、今、いろいろな意味で自分の小ささ、罪深さを恥じ、悔いている。「それは病的だよ」と言う人もあろう。あるいはマゾヒスティックな悦びだよと。しかし評価はどうでもいい。そういう自己意識が厳然とあることは確かなのだ。
そんな自分が、神と会衆との愛のあつまりのなかに、カルヴァンの比喩のごとくぴったり混ざることが許されるというのは、なんとも言えない保証というか、安心感がある。カルヴァンも語りこそ攻撃的だが、たぶん出発点は自分の罪深さへの意識だ。ルネサンスの時代には、塩野七生が語るような自信とやる気に満ちた朗々たる人々も多かったろうが、自分に自信がなく、なぜこんな惨めな自分がいるのかと問い詰める人だっていたはずだ。現代人ならたぶん神経質だ病的だと嗤うような。
教会で罪だ罪だと言うとどうしても暗い感じがするだろうし、言い方によっては人を断罪するような響きにもなるから気をつけないといけない。だから、あくまでわたし自身の罪の自覚と悔い改めの問題として。ふしぎと、日々の生活で幸せを感じるほどに、ほんらい裏切り者である自分がふさわしくない恵みを受けていることを恐れる。
恐れるからいっそう、幸せは幸せとして噛みしめられる。自分は、なんと出会う人々に恵まれたのかと。実力で出会ったのではない、神さまが出会わせて下さったかけがえのない人々ではないかと。
うーん、書くとどうしてもウソクサイなあ。とくに「罪云々」が。リアルに感じているんだが。なんか、自己陶酔というか、あるいは他人を説得、折伏しているような語感が。ほんとうにリアルに感じているんだけどな・・・・自分自身の罪云々は、語りえぬうめきなのだろう。でも言葉にして明らかにもしたい。