古典に血が通っている

“論争がひとたび始まると、それは時とともにますます絶えず燃え上がった。かくてそれは十五年またはそれぐらいの期間ひじょうに激しく続き、一方は他方に冷静に耳を傾けることを欲しなかった。彼らは一度会談を開いたが、たがいに譲らないでなんら一致を見ないで散会した。さらに、彼らはそれぞれすこしも協調しようとしないで、彼らの意見を防衛し反対のものを片っ端から反駁することのほかなにも考えなかった。したがって我々は、ルターは彼の側で、またエコランパディウスとツヴィングリは彼らの側で失敗したと見る。”“彼(ルター)はその意見を受け入れられるような説明をしないで、異を唱えるものを攻撃するため、いつもの激しさで、とくに彼が語ったことを信じることをあまり快く思わなかったひとびとには、納得しがたい誇張した話し方をした。”“彼らは良きものを建設するよりむしろ悪しきものを打破することに重点を置いた。”“それぞれの側は率直に真理を追究するため、たがいに耳を籍し、そこに真理が発見されるのであるが、その忍耐を持たないで失敗したのである。”“もし我々が彼らに負うていることがらを無視し恩知らずになることがないならば、我々は彼らを咎めたり非難したりしないしそれをまたさらに多く許すことができるであろう。”カルヴァン「聖晩餐について」波木居齊二訳
この短い論文の最後のほうに、こうした文言が連発して出てきて、これはほんとうに1541年の論文か?と眼を疑った。
マールブルクの宗教会談が1529年に開かれ、様々な事柄で一致や同意が見られたのだが、聖餐理解だけは物別れに終わったことを、カルヴァンは苦々しく振り返っているのだ。そして彼は今後信仰の一致を共通の信仰告白を制定することに賭けた。だが、カルヴァンの死後、ルター派と改革派との対立は決定的なものになってしまったのだ。日本基督教団の未来は、同じ道をたどるか。しかし、ルター派と改革派とが別の道を歩んでも、それは「キリスト教文化圏」の歴史であり、キリスト教そのものの衰退ではなかった。しかし日本は違う。