昇天と終末を聖餐に感じ取る

聖公会の友人に教えてもらって、秋山徹「キリストの昇天の概念について カルヴァンのキリスト論と聖霊論の問題」を読んだ。赤木善光の議論を思い出しつつ。かなり面白かった。やはりカルヴァンとルターの、それぞれの文化的背景の違いみたいなものを強く感じた。
三一論を強く意識したカルヴァンは、たしかもと法律を専門的に学んだ人だと思う。三一論を確立させたテルトゥリアヌスも法律や修辞学を学んだ人だったように記憶しているから、その教義に厳密にのっとって考えようとしたのは、思考の枠組みとして自然なのかもしれない。一方でルターのドイツでは、エックハルトのような神秘主義の流れがあった。ルターは神秘主義者ではないのだろうけれど、その影響が皆無だというわけではないと思う。とくに、パンのもとに、パンに隠れて、パンとともにキリストがおられるという、あの芸術的というか、ガストン・バシュラールの石や水への想像力を彷彿させるような発想は。
秋山徹の論文で、キリストの昇天を祝うことの大切さが再認識できた。日本基督教団の比較的多くの教会では、復活日は祝っても、昇天日は平日であることもあって、あまり祝わないと思う。しかしカルヴァンの理解に従ってイメージを膨らませるなら、それこそルターと同じくらいの逆説的/逆接的な豊かさがある。
ただの人間のからだを持つにすぎないイエスが、キリストとして、死を克服し、復活して、天に昇った。ルターと違ってキリストは地上に遍在せず、つまりここにはおらず、天にいる。
それは、将来わたしたちも死んだ後、復活して天に行くことができるのだ、だってイエスと同じ人間のからだなんだもの、そういう希望である。つまりそれは終末論なのだ。ルターの場合は今、ここに、キリストのからだがあるのだから、どちらかというと今すでに終末であり、未来に終末を希望するというのではない。カルヴァンの昇天の強調は、死にゆく定めにある人間の、未来への希望なのだろう。そう思ってみると、若きカルヴァンが、ほとんどギリシャ思想すれすれの著作『プシコパニキア』を書いたのも頷ける。彼にとって、心を高くあげること、天の礼拝へと想像力を膨らませることは、自分より先に死んだ人たちが天ですでに礼拝をしていることとひとつなのだ。終末の日まで死者が眠っているというのは、少なくとも若いカルヴァンにとっては受け入れがたいことであった。