濃淡

J・ペリカン著、鈴木浩訳、『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 第1巻 公同的伝統の出現(100−600年)』、教文館、2006を読み始めた。ぜんぶで5巻もあるので、なかなか手をつけられずにいた本。しかしやっぱり面白い。
キリスト教の初期、2世紀頃の様子など、とくに面白い。フスト・ゴンサレスも書いていたかもしれないが、キリスト教の成立のゆるやかさがよく分かる。ユダヤ教内のキリスト教的異端、キリスト教内のユダヤ教的異端、キリスト教ユダヤ教それぞれのグノーシス的異端・・・・・明確な境界があるというよりは濃淡の分布のような発生状況のなかで、次第にわたしたちが「初代キリスト教会」としてイメージするような教会が浮き彫りになってゆく。使徒言行録に書いてある教会の成立を、わたしはもちろん信じている。ただ、そこに出てくる人物「だけで」教会ができあがったわけではないだろうことも信じる。
たしかゴンサレスは、行商人などの無名の旅人たちが、行く先々でキリストを伝えて行ったと推測していた。あるいは、家に集まって礼拝する教会。地下墓場。今のように聖書やメディアや職制が完全に整備されたわけではないのだから、当然、無数の「異端」が生じたはずだ。
ところで大雑把な「異端」の見解を見ると、現代にもありそうな解釈がけっこうある。キリストを完全に人間(預言者)と見做す。あるいはキリストを完全な霊(仮現)と見做す。日本でも海老名弾正と植村正久とのあいだに起こった論争が有名だ。ただしそれは明治時代の話だ。また、今でもそのような解釈はかたちを変えてあるだろう。非神話化として。
もっとも、現代では「異端」という言葉はそんなに簡単には使う事はできない。マクグラスが言うように、教皇や司祭の権威に頼らずだれでも直接聖書を読み解釈できるようになった時点で、そもそも「異端」という言葉の持つ意味は揺らいでしまった。