倫理の狂気

今週の『平清盛』も面白かった。清盛は叔父の首を刎ね、義朝は父の首を刎ねる(実際には刎ねることができず、従者の正清が刎ねる)。正気の人間が、狂気としか思えないような行動を取らねばならないドラマ。わたしが宗教と倫理というテーマで物事を考えるとき、宗教の狂気が倫理を逸脱することをイメージするが(たとえばテロ)、この大河ドラマの場合、倫理の狂気が宗教的良心を押し流す恐怖というか悲惨を丁寧に描いている。いずれにせよ、なにが「狂って」いるのかなど、そう簡単には判断できないということだ。もしもわたしが大河ドラマ平清盛』というファンタジーにリアリティを感じるとすれば、この狂気と正気とのせめぎあいに対してだろうか。
和辻哲郎は『倫理学』のなかで、間柄としての人間、つまり住んでいる場所の風土に根付いた家や家族の関係性を非常に重要視していた。しかしそのような倫理が、極限状況においては、この大河ドラマのように、家族を守るために家族の首を刎ねるという狂気をも孕んでいるということ。そう、まさに和辻は日本語においては「家族」が家族全体を指し、しかも家族の構成員一人一人をも指すと指摘していた(他の語例では「兵隊」など)。だからそれは必然的に、全体としての家族への個としての家族の吸収、全体のための個の犠牲という倫理的態度も含み込んでいるのだ。