異例だからこそ

難しいのでなかなか読み進まないペリカンだが、「救いの意味」のところをどうにか読んだ。初期の教会が、だんだんと「贖い」の教理を整えてゆく苦労ぶりが描かれている。当初は十字架それ自体の積極的な教理は、まだ整えられておらず、創造から堕罪へ、堕罪からキリストにおける回復へという宇宙論的な大きな(大づかみな)理解があったようだ。そしてペリカンによれば、それらの教理は教父たちの個人的神学やオリジナルな創作ではなく、当時の教会で祝われていた礼拝の典礼に基づいているという。
贖いの教理が死からの解放、永遠の命と強く結び付けられているというのもペリカンの指摘するところだ。初期の教会におけるこの復活の意義の強調についてペリカンは“現代の西方のキリスト者が、(中略)最も異例に思うだろうこと”(213頁)と書いている。つまりペリカンが本書を構想したであろう1960年代末には、西欧の多くの教会では復活というメッセージが弱々しい、真面目には受け取られないものになっていたということである。初期のキリスト教会は、圧倒的な死の現実に、復活のキリストの希望をもって立ち向かった。人間は死ぬという現実に向き合うことは今も変わらない以上、この「異例」な教理へのこだわりは、牧師として生きるにあたり最重要課題だとわたしは思っている。