読む、観る

矢川澄子森茉莉の関係のゆたかさを想像する。「聴く」という言葉のほんらいの意味がそこにある。森は矢川にひたすらおしゃべりを続けたという。矢川に帰られるのを恐れるかのように、間断なく。また、矢川は矢川で、元気な森と同年齢ながら寝たきりとなり沈黙する実母に、娘として一方的に語りかけながらも疚しさを感じていたという。
そんな二人が出遭った。実母と同齢の森の、滔々と流れる物語に耳傾けることに、矢川は深い平安を得た。他のスケジュールをすべて犠牲にしてでも、森のもとに留まって、いつまでも聴き続けたのだという。このような森との関係性のなかで、矢川は自己の存在をはっきり見出したのかもしれない。
一方、森は森で、自分の話をどこまでも聴き届ける矢川との関係において、衰えぬ自己、継続する少女としての自分自身を確認し続けることができたのかもしれない。しかしもちろん、現実のふたりの関係は、このように簡単に解説できる「利害関係」などではなかったはずだが。
NHK大英博物館のエジプトの特集を見た。研究の結果としての、民衆の生活の一端を分かりやすく解説してくれて、大変参考になった。とくに、最後の場面。民衆がストライキをしたという説。戦争続きのエジプトで給与が未払いになった際、人々が王に直訴しに来たようだ。王はそれに応えて給与を支払ったらしい。書記官が仲介したため、その様子が文書に残っているようだ。こうしたやりとりを見ていて、出エジプト記の前半の場面が、想像しやすくなった。モーセとアロンが何回も王の前に出てきて直訴する場面。わたしは昔から疑問に思っていた。高官でもないのに、ほんとうにこんなことできたのかと。それより遡れば、そもそもヨセフが出世していく場面など。
シュロモー・サンドが古代を考えるにあたり読者に繰り返し注意していたことだが、王と民衆といっても、近代の絶対主義やナショナリズムの時代のような、王と国民とか、首相と国民というイメージを抱くのは間違いだという指摘。古代、民衆は王にアクセスできたのだ。たぶん古代の国家は近現代のナショナリズムからイメージされるような、大群衆に対して指導者が遠く高いところから手を振るイメージとはだいぶ違っていたのだ。だから、ヨセフにせよエジプトに紛れ込めたし、モーセやアロンも王と交渉可能だった。そうイメージすれば、創世記後半や出エジプト記前半は、だいぶリアルなイメージが湧いてくる。