静謐 勤勉の積み重ねによって

録画していた日曜美術館南桂子の回を観た。連れ合いが以前に気に入って、彼女の絵葉書集を買っていたのだった。連れ合いがいかにも好きになりそうな、とてもやさしいが、とてつもなく寂しさもたたえた作品たち。描かれている少女の、言葉にならない寂しさと、しかし凛と立つ強さと。
番組の中で、山本容子さんという銅版画家が「(描かれる)少女は、少女なのに飛んだり跳ねたりせず、ぜんぜん少女らしくない」と感嘆していた。反語的に、見事に本質を見抜いていたと思う。矢川澄子が語るものを、山本容子さんは「〜ではない」式に語っているのだ、ほとんど無意識に。
南桂子という人は、幼少時に母親も父親も亡くなり、孤独に育ったという。そして40歳近くなったときに、夫や子どもたちを「捨てて」、版画の学びに集中していった。わたしたち傍観者は「捨てて」と安易に言うけれど、そんな簡単なものではないことも、親友であったという画家、小川イチさんによる証言で明らかにされている。
やさしい絵柄で、しかも超絶技巧に裏打ちされているという意味で、長谷川潔の静謐な版画を連想させる。見つめれば見つめるほどに、ため息が出る技術。そういえば、コラージュでよく言及されるエルンストであるが、実際にコラージュ作品を見てみると、引用されるオブジェたちの切り抜き技術、まるで一枚の平坦な紙のように均一に貼りつける技術など、これもまた単なる思い付きなどでは決して実現不可能な、驚嘆する技巧であったことを思い出す。