旧約→新約「一直線」ではなく 

E・スヒレベーク著、ヴィンセンテ・アリバス・塩谷惇子訳、『イエス 一人の生ける者の物語 (第一巻)』、新世社、2003を読了。大変読み応えのある良書であった。まだ第二巻、第三巻と続くが、いったん休憩して、先にペリカンの第一巻だけでも読了しなければ。
エスの時代のユダヤ教の多様さへの考察は、とくに勉強になった。ヘブライユダヤ教とヘレニスト的ユダヤ教、もちろんスヒレベークスはグラデーションがあることを予想した上で便宜的にそう分類したのだろうが、これはシュロモー・サンドのユダヤ教の歴史記述に通じる面白さである。
モーセ五書とその注解の諸伝承を遵守するヘブライユダヤ教徒に対して、ギリシャ語を話すヘレニスト的ユダヤ教徒十戒のみ、すなわち「ルーツに還る」的な、普遍主義的な立場に立っていたという。神への愛と隣人愛への二つに律法を集約させる方法、「自分のしてもらいたいことを隣人にせよ」の黄金律、隣人をユダヤ人だけではなくあらゆる人々へと拡大解釈する仕方は、ディアスポラギリシャ語を話すユダヤ人が、異邦人との接触のなかで身につけて行った「普遍化」のプロセスであると。
彼らヘレニスト的ユダヤ教徒からのキリスト教への改宗者が、イエスの教えを教会化してゆくにあたり、またとくにユダヤ教ヘブライ的に集約されてゆき、それとの対決が要請されるにあたり、自らの文脈でイエスを受容することができたのだと。
また、イエスが真空のなかで突然意味不明なことを語っていたのではなくて、そういうヘレニスト的ユダヤ教の文脈に受け入れられ得る語彙と行動のなかで、しかもそれらから見てもまったく新しい仕方で教えを語ったという姿が、本書で鮮やかに語られている。生前のイエスをイメージする上で大いに助かる。
また、隣人愛→兄弟愛という狭まりが、キリスト教においてもユダヤ教においても教団の発展とともに起こって行ったことも興味深い。つまり隣人愛は出遭い得るあらゆる人間への愛であるが、兄弟愛は共同体内の同胞への愛のみを指していると。イエスが行為で示し、ギリシャ語系ユダヤ人が福音書において言語化していったのは、明らかに隣人愛の広がりである。とくにルカ福音書サマリア人のたとえにおいて顕著であるという。