ありのままに、が、あまりにとおい

ユリイカ 矢川澄子・不滅の少女』の「座談会 生涯をかけて開かせた、傷の花」を読む。松山俊太郎が矢川澄子のネガティヴな傷をぐりぐり抉り出し、それに対して佐藤亜紀があからさまな不快感を示し、緊張感が走る。その均衡をかろうじて保つ、池田香代子。たしかに傷に塩を塗る、痛々しい対談ではある。
矢川澄子澁澤龍彦の、男の子と女の子の未熟で不器用な夫婦生活の傷に、わたし自身の「子どもじみた」夫婦生活を重ね見る思いがして、寒くなる。連れ合いが倒れたことや、彼女が今も深い深い寂しさを、丸めた背中に黙って負っていること。澁澤龍彦という人は、おそらくそうした破れを、天才的なサングラスの発明でもって、両眼ともに見つめずに済ませることができたのだろう。しかしわたしは無能であるために、たぶん彼の真似をすることはできない。
わたしが宮川淳や谷川渥、『遊学』の松岡正剛に強く惹かれていたのは、そして矢川澄子のテクストに今回も惹きつけられたのは、その清潔さ、身体性のなさ、ベールのかかった美しさなのだろうと、あらためて分かった。そのベールの下に、どれほど恐ろしい醜い生々しい肉体的な葛藤を予感させるにせよ。ベールの表面の美。
「ありのままに」という言葉が何を意味しているのか、この年齢になってもまったく理解できないわたしにとって、こうした人々のテクストが持っているベールの表と裏の二重性、というよりも、ベールの表面のみでよしとすること、裏側を詮索するのは恐ろしいこと、こうした消息こそが共感されるのである。