ときどき、考える。タイムマシンで昔の人を連れてきても、言葉が通じないだけでなく、内的体験が違い過ぎて、コミュニケーションが成り立たないだろうなと。「パウロ本人に聞いてみたい」と聖書に問いを感じても、パウロとわたしとでは、ギリシャ語と日本語の壁以上の隔たりがある。
それでもお経を読む人も聖書を読む人も、現代にもいるわけだ。それも昔から伝承されてきた宗教的儀礼のなかで、そうする人が。ということは、これほどに違っている歴史上の人とわたしでも、宇宙人と人間というわけではないのだ。
個人の経る時間をはるかに超えた、世代、時代を経る時間。その厚さ、隔たりと、その近さと。