今ここにある真理

J・ペリカンの『キリスト教の伝統 第1巻』を読了。最後あたりの、ローマ教皇の出現の由来、またグレゴリウスによる煉獄の教理およびミサの犠牲の教理の定式化への言及が、興味を惹いた。煉獄との関連で、罪を犯して死んだ死者への赦免のために、ミサの犠牲を捧げるという要素。施餓鬼供養という言葉を連想したら、カトリックの方にも仏教徒の方にもお叱りを受けてしまうだろうか。
訳者の鈴木浩による後書きに言及されていて、改めてはっとなったが、本書は原罪のルーツを考える上でも学びになった。ペラギウスを待つまでもなく、テルトゥリアヌスらにおいてさえ、赤子の無垢が信じられていたこと。一方で、当時の死亡率の高さから、生後間もない洗礼が定着していったこと。それを正当化するためには、生まれてすでに罪があること(だから洗礼を受けて清められる必要があること)を説明しなければならなかったこと。そして、アウグスティヌスの恵みの神学。つまり、救いは神の一方的な恵みによるもので、人間は生まれてすでに罪深く、自力では救われないという理解。そこから431年のエフェソ公会議に至って、ペラギウス的な「無垢」は完全に否定された。しかし20世紀になって、カール・バルトが幼児洗礼を否定したこと。ここで、以前読んだ赤木善光の神学へテーマが戻ってくるようにも思う。起源がアウグスティヌスあたりにはっきり求められる「原罪」「先行する恵み」の伝統を、今ここにある真理として信じるのかどうかという問題に。

“間違っていたのは、神の複雑で多様な活動を、ペラギウス的な神人共働論やアウグスティヌス的な予定論のような単一の定式に還元することであった。神の召しは、神が召した人間が多様であったように、多様だったのである。”(同書、428頁。)