泰然自若になれない人の、なれないという自然を

多田智満子による矢川澄子の回想を読んでいた。あらゆる意味でルサンチマンから自由であったらしい多田には、ルサンチマンや上昇志向との闘いのなかで疲弊しきったであろう矢川の疲労感や孤独感は理解できなかったということが伝わってくる。多田も癌による自身の近い死を自覚しているが、おのれの死をまったく飾ろうとしないところ、弱さを自分のありように従って受容しているところが、矢川の美しい、どこまでも美しく装わねばならなかった生き方と対照的でもある。たぶん、弱さを自覚している、自分は強いなどと思ってもみない多田は、矢川から見てあまりにも眩しい強さを放っていたのだ。
とはいえ「上昇志向から自由になれ」「ありのままの自分を受け入れたらいい」と人から言われて、じゃあそうします、というようなことができない人も実際にいるのだ。装わなければ、死さえ装わなければ死ねない人もいる。そうした人が自らの命を絶った後で、人々は「なぜ彼女は自殺したのか」と問うわけだが、そうではない。そういう人だから、自殺しなければならなかったのだ。強度を保つためには、おのれの崩壊を目の当たりにする前に自らを断たねばならなかったのだ。そしてそういうことは、「ありのままに」生きることができる人には、おそらく一生理解できない消息であろう。
正確な引用ではないが、ハイデガーの「人は存在の主人ではない。人は存在の牧者である。」(『ヒューマニズムについて』)という言葉を思い出す。その人の存在がなぜそのようであるのか、なぜ人を羨ましがるのか、なぜありのままに生きられないのか。それは、そう生まれついたからだ。げんにそう生きているからだ。おのれの、気がつけばそうでしかあり得ない存在を、だからあらかじめ「これからはありのままに受け止めよう」などと自分で制御できはしない。なぜか人を羨み、人に左右され、それでも精一杯美しく飾ろうとしてしまう。そのような「美」へのこだわりは、その人がその人自身という存在に振り回されつつも、どこに向かうか分からない羊の群れたるその存在に精一杯仕えようとする、一生未熟な羊飼いの姿なのである。 とはいえ、このような人を知るにつれ、ではどうやったらその人の自死を止めることができたのか、どのようにしてその人が装うことに疲れた時、休む場を提供できたのかを考えてしまうのが、同じくありのままには生きることのできない、しかも宗教者の、わたしのような人間でもある。