主人と客の二重性

連れ合いが買ったものの「むずかしい」と挫折していた鷲田清一『「聴く」ことの力』(阪急コミュニケーションズ)を読んだ。レヴィナスメルロ=ポンティの他者論から、緊張感ある、しかしやさしい眼差しに満ちた、謙虚な臨床哲学が展開されている。
聖公会の司祭の友人とスカイプで語り合う。彼は今日もわたしと歓談しつつ、タイミングよくわたしの「痛み」に、そっとふれてくれた。彼がプライベートな友人でありながら、公けに司祭である瞬間。
わたしが「自分は何者でもない」と打ち明けると、彼は静かに否定した。「何者でもないあなたが、噛み砕かれる者として、他者に差し出されているのです」。司祭である彼が、クズであると自認するわたしを、まさにホスチアと同じものとして遇して呉れる/受け容れて呉れる。この歓待しつつ歓待される喜び。実際に会うのであれ、インターネット回線を通してであれ、彼は客人として気安くわたしを訪れては、いつのまにかわたしを客として遇し、その傷に手を当てる。鷲田清一ラテン語のhospesすなわち主人/客の両方の意味を持つ語にhospitalityの本質を見た、そのとおりの体験がここにある。しかし鷲田の説と異なるのは、そこでは継承される信仰の客観性という軸が、ぶれずにあるということ。