囁かれる福音

今日はいよいよ冴えないきもちで月一度のテゼー礼拝に出かけた。いくらなんでも今日は礼拝で気持ちが晴れることもあるまいと。けれども、短い賛美歌を繰り返し唱和し、沈黙し、例によってみんなと同じ向きに座った牧師の、独り言めいた呟き説教に耳を傾けるうち、しんみりと癒され、ざわつきが鎮められた。
あとで牧師に近況報告しながら、やはり自分は牧師になりたい、もういちどならせて頂きたいという思いが、そこに横たわっていることがはっきりした。生活がどうとかはまず置いておいて。小さな伝道所で、数人の信徒と共にであっても。前から高圧的に語るのではなく、みんなと同じ方向を向いて、福音をとつとつと呟く、あるいは囁いているような。
今日の牧師と同じことは、わたしにはもちろん到底できない、できる器じゃないのだけれど、あくまで彼の神に対する態度、講壇からみんなの頭の上を超えて独り語り続けるのではなく、そこに集まった一人ひとりの呼吸を感じつつ、その呼吸を一言ひとこと声にしてゆくように、呟き囁き分かち合う福音のありようをこそ、まねびたいのだ。