二人のひと

“弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。”ヨハネ9:2-3
テゼー礼拝で牧師が、この後半のイエスの台詞を語ったとき、イエス自身がわたしにそう言ったと聴こえた。引用は引用者自身の言語となり、しかも引用源のイエス・キリストの権威を保持したままである。わたしは語りからふたりの「彼」に同時に出遭っていた。そこに安心の秘密がある。
ヒレベークが繰り返す、イエスの思い出という概念。たぶん初代の教会においても、伝承者が自分自身の言葉であってしかもイエス本人の言葉でもあるような語りをしていたのだ。そのとき伝承者はありありとイエスを思い出しており、聞き手は語り手とイエスに同時に出遭っていた。だから聞き手にも、生前や復活後のイエスを直接見たのでないにも関わらず、イエスと出遭った思い出ができた。
だから福音はイエス自身として、凄まじい勢いで次々に新たな聞き手と遭遇しては、その人を今度は語り手/イエス自身へと変容させていった。福音書は、イエスのペルソナが風が吹くように伝染していった痕跡なのだ。