へり「くだら」ない

無任所になってこの季節を迎えるのは3度目。いつも微妙な気分になってくる。「安心」が欲しいなあ。他には何も要らない。
本田哲郎著、『聖書を発見する』、岩波書店、2010を読んでいる。あらためて、神学は中立という意味での客観的などではあり得ず、決断を迫られる学なのだと。以前のわたしなら迷わず「なんでそこまで言われなあかんねん」という方向で「決断」しちゃってただろうなと。
出会う時期というものがある。まず序章で以下のような出来事に出くわす。“炊き出しの列のいちばん最後に並んでいるおっちゃんがいる。列がどんどん前に進んでいって、そのおっちゃんの番まであと一〇メートルぐらいというとき、お鍋がカランカランと音をたてる。量が少なくなって、ひしゃくをつっこむと音が出る。するとおっちゃん、首をのばして背伸びをしたりして、心配そうにしている、自分の分まであるだろうか、と。”。本田神父によれば、これは金井牧師という方の言葉の引用なのだそうだが、金井牧師はこの心配するおっちゃんとイエスを同一視するという。本田神父が繰り返し語るのは、へり「くだる」のではなくて、最初からそこにいるイエスだ。
おっちゃんとイエスの同一視を「言い過ぎだ」とか「まあ、そんな表現もあっていいよな」と余裕を持って読むのか。おっちゃんの焦りにおっちゃんと一緒に焦るイエスを、そしてわたしの焦りを重ねて涙ぐむのか。
「憐れまれる」人がどれほど自分を情けなく思うか。「憐れまれる」姿を他者から、とくに家族や以前親しかった人からはどんなに見られたくないかという、苦しみの指摘。これも本田神父が出遭いの中で具体的に知ることとなった痛みである。助けてもらうばっかりの生活が、どれほど助けられる人を参らせるものであるか。自分の無力ばかりを思い知らされる、「憐れんでもらう」生活が。しかし、というか、だから、というか、イエスは憐れまないのだと本田神父は確信している。イエスは憐れむのではなく、最初からその人の側にいるのだと。憐れまれ、助けられて恥ずかしさと情けなさのなかにある人のほうで、一緒に恥ずかしく情けなくなっているのだと。
彼の洗礼理解とそこから帰結するオープン・コミュニオン(いわゆる「フリー聖餐」)の態度が反伝統的ないし異端的であるということで、この本全体を禁書のように扱うこともできうるだろう。しかし、彼の神学のすべてに賛成するか反対するかというような全肯定全否定の二元論に立つのでなく、彼が何に怒り、誰と一緒にいようとしているのかに、まず耳を傾けねばならぬ。