繰り返し回顧され、ゆたかになる体験

ヒレベークの『イエス(第二巻)』のなかで、パウロの回心についての使徒言行録9章、22章、26章に出てくる表現の比較ないし発展が詳細に分析されていた。とても面白い。復活のイエスの顕現体験が、客観的な観察記録といったものではないということを、見事に要約した分析。
9章では語り手がパウロの体験を語り、22章と26章ではパウロがそれぞれの場面でそれぞれの相手に向かって自分の体験を語っているのだが、その焦点が回心から使徒としての召命(派遣)へとシフトしていっている。また、スヒレベークの分析から、パウロがイエスを「見た」ことが、視覚的かどうかはそもそもまったく問題にならないことを示している。スヒレベークはそれ以前にも四福音書それぞれの復活イエス顕現についての記述態度の多様性から、四福音書がたんに復活イエスの目撃談を語りたいのではなく、まさにそれぞれの福音書固有の使徒召命や派遣の文脈において語っているのだということを明らかにしている。
卑近なことになるけれども、こういう考察を読むと、安心する。特別な宗教体験というか、瞬間的な「体験」それ自体が固有に飛び出た価値を持つのではないということ。むしろ問題はその「体験」からどのように自分が衝き動かされ、遣わされてゆくのかということだ。奇跡は一発芸なのではない。そこから生じる、その後の生涯にわたる波紋が大事なのだ。