「子ども」との遭遇

小田垣雅也の『一緒なのにひとり』と本田哲郎の『聖書を発見する』を同時進行で読んでいると、ちょうど同じ聖書箇所を用いて、お互い正反対とも思われるようなメッセージを発しているのに遭遇。マルコ9:37“わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。”とのイエスの言葉における「子ども」が何を意味するのかについて。
本田神父は子どもを、いわば「最も小さくされた大人」、抑圧され社会的弱者の立場へと追い詰められた人(年齢は関係ない)と見る。一方小田垣は子どもの純真さに注目し、それは強い心を持ったロマン主義者によって守られ育まれるものであるとし、そうしたロマン主義者について“依存すべき規準を外部にもたぬ事態を維持しているためには、自分の心の自立した強さが必要だ”というように、真のロマン主義の「強さ」を論じてゆく。
小田垣は少年時代、戦中戦後の大人たちの徹底的な弱さを見て育った。だからロマン主義における自立した強さを追求する。彼がわたしの大好きな竹久夢二高畠華宵蕗谷虹児大正ロマンを「弱いロマン主義」として否定的に語るのも面白い。
ところで本田神父はといえば、「弱い」人を見ているのではない。「弱くされた」人と出遭っているのである。本田は小田垣とは異なり、徹底的に「今、弱いという現実」を肯定する文脈での「子ども」理解である。小田垣が、それが自然ありのままでなく大人によって守られる性質であるとはいえ、子ども=純真の文脈で語るのに対して、本田は“子どもは純粋でけがれがないというのは、おそらく子どもを育てたことのない人たちがかってに作り上げたイメージだったと思います。”とばっさり。
どちらが聖書のメッセージに忠実か。そんな問いは愚かなのだろう。どちらも真剣に、自らが直面する現実へと語り出そうとしている。