対話についての覚え書き

ツイッター上で、外交問題とか歴史問題とかで、意見の異なる相手に執拗に絡んで「勝つ」まで止めない人がいるけれども、明らかにフォロー関係にない人だと思われる。その場合、テーマで検索をかけて、該当する相手に手当たり次第に反論を仕掛けているのだろうか。
パソコンやスマートフォンなどの、この独特の画面空間が、人の怒りの火に油を注ぐのだろうか。対面で「おまえアホか」と言われたらそりゃ腹も立つだろうけれども、それ以上に「おまえアホか」という活字、それも印刷物よりもむしろこのゴシック体か何か、このフォントと画面の光の作用なのだろうか。それとも歩行中ではなく運転席における(追い越しや割り込みへの)独特の苛立ちのような、空間的な作用なのだろうか。
他人に関心を持たないよりは持った方がいいとは思う。ときには本音で議論をぶつけあうことも。けれども、たぶん一生会うことのない相手に、検索をかけてまで議論を挑み、「勝つ」まで徹底的に論破しようとする、このすさまじいエネルギーは何なのだろうか。
小田垣雅也が次のようなことを言う。“意見や感情の一致は同意ではないのだ。意見や感情の不一致を承認してこそ、同意が有る。人間はその境域でこそ、生きうるのである。”。これは小田垣自身が説明するように、主観・客観の論理的地平とは異なる体験領域なので、論理的な説明はできない。
しかし小田垣がかろうじて伝えようとするところをさらに表面だけでもなぞると、要するに意見や見解の一致は、不一致という前提があって成立する(弁証法?)。つまりつねに不一致を内包した、不安定な一致に過ぎない。だからこそ一致・不一致を超えた、相手の人間存在そのものとの一致を追求する、というようなもの。小田垣と井上洋治の、同じキリスト教ではあるが異なる信仰理解同士の一致の体験や、鈴木大拙とトマス・マートンの、禅とトラピストの対話が例示されている。彼らは教理など論理的な一致は一切見出していない。論理だけで言うなら「何を一致したというんだ。お互い手加減して、遠慮して本音を言わず、おもねりあっただけじゃないの?」と勘繰られるかもしれない。しかしそうではなく、深く認識を共有しあう何かがあったのだという。
たぶん歴史理解や領土認識などは、たんなる知識というよりは自身の生い立ちや受けてきた教育など、その身体的体験および他者との影響関係が深く食い込んだ知である。ツイッターはもちろんすばらしい可能性を持っているけれども、顔を見ない、身体的対面もない、まさに論理だけで、このようなテーマを論じあうことは、厳しい感情の亀裂を生むばかりだとも思う。
いつでも顔を見て話せるわけでもないし、顔を知って会う事ができるわけでもない。だが、顔を想像することはできるのではないか。そこにどんな人が暮らし、自分とはどれほどかけ離れた、異なる人生を歩んできたかというような。
小田垣が「一致」という言葉で言わんとすることは、むしろ「呼応」とでも言うべき体験領域なのかもしれない。