自己愛の絡みつき

今日一日、どうやって耐えようか。もうだんだんしんどくなってきた。
人生は勝ち負けじゃないと、クリスチャンホームで育った人によく励まされるが、自分は勝ち負けの価値観のなかで生い育った「ぽっと出」なので、これがまた体感できない。悟れない。どうしても「負けたなあ」とか思ってしまう。以前クリスチャン3世か4世のベテラン牧師が言っていた。「あなたのような熱心な初代クリスチャンは、しかし困難なことが起こるとすぐに躓く。そして教会から去ってゆく。けれどもわたしたち生まれた時からのクリスチャンは、逆らったり飛びだしたりするけれども、最後には教会へ帰ってゆく。最初から神の手のひらのなかにいるから」。そのとき思ったものだ。そうか、あんたたちは祝福されていて、おれは祝福の外ってわけか。まさにキプリアヌスの言うとおりってわけかと。今はあんたの言うことも、キプリアヌスの言うことも、正しかったってわかるよ。バカバカしい!
クリスチャン家庭に育った人がすでに出会っている神と、ぽっと出が八百万(やおよろず)の神々のなかから出遭った神とは、たぶん別物だ、そう思えてならないことさえある。
芥川龍之介は、八百万の神々のなかで“西方の”人、つまり紅毛碧眼のクリストと出遭った。だが、というか、だから、やはり彼にとってはクリストは西方から来たお客さんだったんだろうな。わたしにとっては?
自死した芥川は枕もとに聖書を置いていたと聞いたことがある。イエスは彼に対しては、ついに聖書の活字群から飛び出してくることはなかったのだな。芥川がそこへと飛び込むことも…泣ける。
紅白のサンタさんの神。ぱかぱか光るクリスマスツリーと白いケーキの神。わたしにとっての神は、そこから飛び出しただろうか。わたしは飛び込んだだろうか。