放り出し、寝そべれる玄関

お世話になっている先生がツイッター上で、マタイによる福音書15:29-30を引用しておられる。“大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。” (30節)その先生は、今回は病人を連れて来る人、山の上のイエスのところまで、時には病者を背負ってでも連れて来る人に注目しておられた。
偶然だが、わたしも以前、この箇所で、連れて来る人に注目して説教したことがあった。たとえばマタイ15:22で、母親は病の娘ではなく「わたしを」憐れんで欲しいと願う。苦しむ人をイエスのところまで必死に連れて来る人は、その人自身が苦しんでいるからでもある。愛する者が苦しむのを見るに耐えない苦しみ。あるいは愛するものを愛しつつ、しかし看病に疲れ、おのれの限界を感じ、誠実に愛することができなくなりつつある苦しみ。*1
エスの足もとに苦しむ人を横たえる、つまり投げ出す(リプトー)人は、自分は異常ないけれどもこの人を治して下さい、とかしこまってはいられなかった。旅のあいだ重い鞄を運んで来た人が、家の玄関にたどり着き、やっと着いた!と鞄を放り出す。もちろん鞄は取り返しのきかない貴重品がつまった鞄で、我が家の玄関以外でそんなことはできぬ。
エスという玄関にたどり着いた、苦しむ人を運んできた人、実は自身も苦しかった人は、今や安心してその人をイエスの足もとに放り出すのだ。放り出された人も、放り出して軽くなった人も、今やイエスに癒される。

*1:もちろん運ばれてきた人の苦しみに思いを馳せれば、そこには「自分は運ばれゆく重荷でしかないのか」という屈辱、生きていることそれ自体の苦しみもあるはずである。肉体の苦しみだけではない。