悩むこと、煩うこと

マタイによる福音書6:25−34*1のイエスの言葉について、小田垣雅也は次のように語る。
“空の鳥や野の花が引き合いにだされるのは、そういう文脈であろう。彼らにはそのような慮りがない。率直に鳥であり、率直に花だ。「ばらは何ゆえに咲く。何故なし」(シレジウス)である。それは「すべてを神に委ねよう」という決意することほど、神に委ねていない態度はないのと同じである。”
“自分の不信に「思い悩み」(「思い煩い」ではない)、神に信頼して信仰を得たと「思い込み」、努力する生は、真面目だが粋やユーモアに欠ける。真面目すぎるのは、軽薄さの別の表現であることが多いのである。”以上二箇所、小田垣雅也著、『一緒なのにひとり』、LITHON、2004、152頁および153頁。
小田垣は、「悩む」と「煩う」を分けて考える。口語訳まで「煩う」だったのが、新共同訳で「悩む」に変わったことへの違和感として。「悩む」にはどこまでも主知的な響きがあると彼は考えている。煩うことには、もっと知性では拾いきれない、知性で処理しきれぬ強迫観念などの不安も含まれていると。
そして小田垣の結論としては、脱しようとすればするほど悩みの背後にある煩いは深くひどくなるばかりだ、だから、そこから脱しようとするのではなくて、思い煩ったままでいいじゃないか、そのままの状態の受容がすなわち思い煩わないことと相即だ、という理解である。こういうことを言うから彼はプロテスタントから過小評価されるのだろう。でも、こういうことを言うから、わたしは彼のありようが好きなのだ。いかにもロマン主義者らしいありようが。

*1:“だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。”