信仰の粋

ある楽しみにしていたイベントがあり、しかしやはり優先してやらねばならぬこともあり、イベントは第二希望に格下げ。連れ合いが言う「あんなに行きたがっていたのに、いいの?」。
「いや、いい。十分他のことで満足してるし、贅沢言っちゃきりがない。」。
すると連れ合いが微笑む。「そういう決断も、‘神様に委ねてる’って言うんだよ。気づいてないだろうけど。」。
今、このやりとりを振り返り気付く。信仰とお洒落は似ていると。「おれはオシャレだ」と意識したら、もうどこか野暮になる。「神に委ねるぞ、委ねねばならぬ」と念じる限り、委ねは起きぬ。
だからわたしが今まで繰り返し、自分でやっては悶々としてきた「今委ねているか」という確認は、決して達成できぬ。わたしは、夢中で神を信じているあの人この人についてのみ「あの人は神に委ね切っている」と賛嘆できるのであり、自己自身に対してそのような気付きは決してやっては来ぬ。
粋な人は、懸命に、しかも一寸の余裕をもって生きているが、自分でそんな「戦略」を意識したりはせぬ。そういう人が粋な人である。つまり、わたしが神に委ねる信仰を持っているかどうかなど、自分で検証することではない。そんな「評価」など、連れ合いや他の人の気付きに任せてしまえばよい。わたしが頓着する必要はないのである。
やっと気付いた。爽やかな気持ち。連れ合いのさりげない、それこそ粋の極みの一言に感謝。