認めたくなくても、しかしそうなのだということ。

残暑の台所で、冷たい無花果にかぶりつく。イエスを拒み、怒れる彼に呪われ枯らされてしまった無花果は、もしもなっていればどんな味がしたのだろうと考えつつ。
“これが、イエスの怒りではないとすれば、いったい何なのでしょうか。イエスは怒るべきときには、本気で怒っているということです。(中略)そして、いちじくの木に実がなっていないのは、そのいちじくの木のことを言っているのではないということです。マルコが、いちじくの実がなる季節ではなかったと断っているということは、要するに何か別のこと、つまり、何かをいちじくの木にたとえて言っているのです。葉ばかり茂らせていて、何の実りもない。それはまさに神殿のことだ、というわけです。ですから、語りの展開としては、神殿と神殿の間にはさむかたちで、この葉ばかり茂らせているいちじくの木のエピソードを語っているのです。「だれもおまえの実を食べることがないように」とは、神殿に行っても、いったい何があるんだということです。”(本田哲郎著、『聖書を発見する』、190頁。)
本田神父の神学書は、神学書でありつつ、観想の書であり、説教の書であり、わたしにとっては癒しの書である。わたしは、本田神父の語りにふれて、自分がいかに小さくされて「いない」者であるか、小さくされている人を見下ろし、憐れんで「やる」傲慢な者であるかと気づかされる。高みから低みへと視点が転換させられる出来事(メタノエイン)を与えられる。そして、視点が変えられるということはつまり、そこへと、低みへと衝き動かされるということである。「ああ、そんな見方もあったよね」は、視点が変わったとは言わない。
本田神父はわたしに、低くなれ、とは言わない。低くない者が低くなることは傲慢であると言う。そうではなく、低く「ない」ことに気づけと。自分自身は低く「ない」ことを素直に受け入れ、今げんに低くされている他者へと衝き動かされろと。それが従来「憐れむ」などときれいな言葉で翻訳されてきたスプランクニゾマイだと。
逆説的な表現になってしまうが、わたしは社交的な意味での謙虚さは努力して身につけられても、神の前に「低くなる」ことなどできないということ、このことに徹底して気付くこと。従来の語彙で言うなら、悔い改め「られない」ことを素直に認めること。そういう自分を受容し、しかし低くされている人へと衝き動かされること。