説教雑感

いろいろなことでお世話になっている先生が、「君の説教は、接続詞をきちんと入れるよう注意すると、格段に分かりやすくなるよ」と言って下さった。嬉しい!昔、別の尊敬する先生に「気味の説教は面白い。もっと短くすれば、さらにいい。」と言って頂いたことも合わせて、丁寧に作文しよう。
やはり思い出すのは、そもそも前任地赴任のきっかけになった、10年前の夏期教会実習。わたしの下手くそで理屈満載の説教を聴いた方が、礼拝後、片付けるわたしの背後から大きな声で「あんたの説教は聖書からの直球勝負やな!」。驚いて振り返ると、満面の笑みの老婦人。それが師との出会いだった。
師の死後、主任牧師を引き継いで以降は、信徒の皆さんから「難しい」「十字架が弱い、語られてない」「十字架、罪と重すぎる」等々、厳しい批評も頂いた。もちろん悔しかったけれど、あれがまた勉強になった。「これがおれのスタイルだ」というちっぽけな思い込みを打ち砕いてくれた。さらに、ひいては説教の骨となる教義や教理にいっそう興味を持ち、もう一度勉強し始めるきっかけにもなったのだった。
説教ではないが、著作において、本田哲郎神父は読者に低みへと眼差しを転換すること(従来の言葉で言うなら「悔い改め」)を迫る。逆に晴佐久昌英神父は読者に、ありのままのあなたでいいとささやきかける。どちらも説教が人間に向き合う際の、本質的な要素だと思う。