這いつくばる低さで、横たわる人に耳傾けて

キリスト教雑誌の生きる道」というタイトルの、平野克己氏(雑誌『Ministry』)と藤掛明氏(雑誌『牧会ジャーナル』)がパネラーのミニシンポジウムに出席した。平野氏が語る「対話のテーブル」、そして藤掛氏の牧師や牧会への心理学的アプローチの取り組みに、それぞれ感銘を受けた。つまり、どちらも「弱い部分」「あんまりふれて欲しくない部分」へのアプローチを試みているという点で。
日本の独特の風土と歴史のなかで、プロテスタント教会、ことに日本基督教団においては、非常に残念な壁が生じている。大阪万博の時代に現役牧師だった人たちは、かつて同じテーブルで論争し、別れて行った。それ以降の世代の牧師たちは、最初っからそれぞれ違うテーブルに着いている。そのことを平野氏は指摘し、非常に遺憾であると語っていた。そして雑誌『Ministry』が、対話のテーブルのような場となれば、とも。
また、対話につくためには、強気な論理論争をしても、たぶん火花が散るだけである。敢えておのれの「弱さ」を相手に晒さねばならぬ。そういう部分で藤掛氏の、疲労する牧師やその家族へのアプローチは大切に思われたのであった。対話において、お互いの「弱さ」を、ありのままに分かち合える可能性を探ることの必要性。もちろんわたしとて、何もニューエイジや流行りのヒーリング的な意味で「ありのままでいいんだよ」みたいな信仰の安売りをしたいわけではない。ただ、高邁な教えが空回りし、牧師も教会員も疲れ切ってしまう「こともある」、それもけっこうな頻度で、ということを直視したいだけなのだ。
キリスト教雑誌が牧師の疲労や教会の諸問題など「後ろ向き」で「ネガティヴ」なテーマを扱うからといって、雑誌が暗くなることはないはずだ。聖書にも“わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。”とか“わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。”など、究極にネガティヴでありながら、読む人を癒す言葉がたくさんある。ネガティヴな思い、前向きになんかなれない状況を代弁してくれるテクストの必要性。もちろん「スキャンダルを暴いてどうする。伝道は現実に負けず、むしろ逆境においてこそ福音を高らかに語るべきだ」という意見もあると思う。それはそれで、そういうコンセプトを持った媒体がどんどん力強く語ればよいのだ。その一方で、暗闇の低地に敢えて這いつくばり、今這いつくばって砂を噛んでいる人の声を聴きとり、それをテクストにし、他の場所で同じく這いつくばっている人に「ほら、まさにあなたと同じなかまがいる!このテクストのむこうに!」と伝えてくれるような、そんなキリスト教雑誌の可能性。
自分の悩みが、世界で自分ひとりっきりじゃないこと、意外と多くの人が同じことで悩んでいること。その事実を具体的に知ることができるというのは、直接の問題の解決にはならないかもしれないが、少なくとも悩む人にとって大きな慰めにはなる。そして、その問題ないし悩みを知らない人に対しては、あらたな角度から福音を受け取り直す可能性を知らせることになるのではないだろうか。