しかし狭くしか見ることができないのだった。

吉田茂のNHKのドラマを見ていた。鳩山一郎が「友愛」を語っていて、なるほど父の代からか、と、ちょっと可笑しかった。相変わらずよくできたドラマだと思って観ていたが、気になるシーンもあった。
劇中、女性が米兵に売春している場面があって、吉田の秘書(男性)が、それを歯をくいしばって見ている場面がある。おそらくは女性=日本、米兵=占領する合衆国、という受け止め。
あれは当時の彼の価値観として、登場人物の彼がそう感じたのだったという客観的描写なのか。それとも、脚本家自身の価値観すなわち現代への皮肉としてそう描いたのか。後者であるとすると、言いたいことに対して譬えが悪すぎる。国家の痛みと、ひとりの人格者としての女性が犯されることの痛みとは、そもそも象徴関係で結び付けることができるのだろうか、この現代に。具体的な人間が目の前で人格を蹂躙され身体を傷つけられる、それを普遍化抽象化して国家の問題として語るとき、痛みの質も変容し、何かが付加され、同時に、何か決定的に忘れてはならないことが抜け落ちる。
それとも、「それが政治だ。問題の主要点を抽出すべき大きな視野が要るのだ。宗教屋の出る幕じゃない」と言われてしまうのだろうか。