だれもが「そうだ」ということをさらに「そうだ」と納得してもらうこと。

原発に関する、ある議論を見て感じた。原発に否ということを、リアリティを含めて相手に伝えるのは、戦争反対と同じくらい難しいと。
遠回りな譬えだが、ベートーヴェンはいいと言って「センス悪いな」と言われることは滅多にない。「戦争反対」や「原発反対」が、命題それ自身として、それくらい安全な発言になってしまうと、その安全さと比例して説得力が薄くなる恐れがある。かと言ってその裏をかいて過激で危険な発言を繰り出すとなると、今度は新奇を狙った劇場型の煽り文句になってしまう。逆説もまた、連発すればただの天邪鬼である。
わたしは宗教者として、「そりゃそっちのほうがいいよ。言うだけならな。」としか受け取ってもらえないようなテーマを、どのようにチープさと劇場型との葛藤のなかで語ることができるのか。深く考えさせられる。
世俗的経験的常識に照らせば、誰もが頷く命題を主張するより、誰もが最初は反対する命題を忍耐強く主張する方が、内容に関係なく時間経過とともに説得力を持つことが多々ある。それでも「陳腐な」命題を、しかも真新しい迫真性ある主張として表現する必要性。