滅多に語り得ぬゆえに

小林秀雄の「実朝」を読んでいたら、源実朝の次のような二首に出遭う。
“神といひ仏といふも世の中の人のこゝろのほかのものかは”
“塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔(さんげ)にまさる功徳やはある”
小林は実朝について、“彼の性格についても深入りはしまい。それは歴史小説家の任務であろうし、それに、僕は、近代文学によって誇張された性格とか心理とかいう実在めいた概念をあまり信用してもいない。”とも語り、また、“実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである。”とも言う。小林は実朝の内面の深さではなく、表面の深さを読みとる。
小林秀雄の実朝の読みは、健康的な中庸だと思う。内面を病的な神経質さで掘り穿つのでもなく、かといって徒らに古典期の素朴さに肉体/自然の強健を重ね見るでもない。心理学の存在しなかった時代のテクストを、可能な限り心理学の影響無しに(完全に無くすことは心理学の現代に生きる小林にも我々にも不可能であることはわきまえつつ)読もうとする。また、これがわたしにとって最重要だが、近現代の宗教者の「逆説」を軽やかに通過すること。
「罪人かつ義人」「弱いときこそ強い」を、そのリアリティへの検証抜きに連呼すると、逆説はインフレを起こす。わたし自身、前任地で失敗した「しらけ」の大きな一因でもある。検証なき逆説の安売りは、現実逃避の「それでも勝つ!万歳!」というマッチョイズムと紙一重だ。 逆説は、積極的な(実定的/positivな)命題にはならない。なそうとすればするほと安いものになり、手のひらからするすると抜け落ち行くのである。