他人に苛立つときこそ、他者の現実性を味わうとき

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120920/waf12092007000000-n1.htm
どこまでがマナーで、どこからが思想なのか。
国歌不起立問題で、いぜんある牧師が話していたことを思い出す。彼がやや強く主張したのは、聖餐式において聖餐を拒否する信徒がいれば、陪餐停止処分にすべきだということである。なぜならそれは主義主張を超えて、そもそも神を拒否しているからだと。今回、泉佐野市長の言いたいことも、主義主張以前の話だ、国歌と国旗へのマナーは大前提だ、そういう意味であろう。
聖餐拒否については、たしかに信仰者が聖餐に与ること(陪餐)を拒否する行為は、キリスト教の教義に照らしてよくないことであり、牧師は信徒に態度の改善を求める職責もあろう。また、自身の体験から想像してだが、牧師を睨みつけつつ聖餐の受領を拒否する信徒がいれば、たしかに落ち着いて聖餐式を執行するのは厳しい。
しかし「なぜ」そこに至ったのか。なぜその人は、その態度を、今ここで、敢えてとるのか。その行為へと至った、その経緯への想像力が、ここでこそ問われる。もちろん「なぜ」そんなことに想像力を働かせねばならないのか、こっちが?という選択肢もあるにはあるが。
配慮あるいは自己の許容量の限界に達したときの苛立ち「なんで‘あいつ(ら)’のことまで考えてやらなあかんねん」。その諦めというか面倒くささというか、それに対して「いや、それでも」という、他者への想像力がどれほど打ち克つことができるか。「いや、それでも、そういう態度をとるからには、なにか理由がある」という。
冒頭の引用記事におけるマナーの観点で言えば、式典中に大声を出したり会場を走り回ればマナー違反だろう。即刻退場してもらうべきだろう。しかし、皆が起立する際に、ただ静かに座っている人。ごくわずかの。式典すべてに対してではなく、敢えて国歌や国旗のみにピンポイントに反抗する、その態度への想像力が要る。
これはわたし自身がキリスト教徒であるという手前味噌かもしれないが、その想像力とはすなわち、国歌も国旗も、天皇を神とする伝統を背後に背負っている以上、それを戦前からの宗教・信条と受け取る「人もいる」という想像力である。 また、上記の記事に引用される不起立の人のように、自己自身の属する歴史と良心とに照らして、国歌と国旗に対して痛みを感じる「人もいる」という想像力である。そもそもマナーという観点で言うならば、主義主張で立たないのか、体調が悪かったり膝や腰が痛いからなのかは、まさに第三者の「観察と判断」によるしかないわけで、前者は悪、後者なら許すというのは、どうにも神経質すぎるように思う。マナーは信頼関係によるところが大きいのだから。
「人それぞれ」という無関心でもかまわない。相手を疎外しないならばとりあえず。しかし、できるならもう一歩。「そういう人もいる」という、「人それぞれ」よりはわずかだが、ほんの少しだけ踏み出した配慮。そういう人の「そういう」とは、もちろん、自分とは違った態度をとる他者の含み。わたしと異なることに対するわたし自身の苛立ちをも含めた、他者の厚み。