新約聖書内部に教理史を観る

ヒレベーク『イエス(第二巻)』第三部第一篇第一章まで読んだ。それぞれの福音書の神学的関心の違い、また、パウロの違いなどが網羅されていて面白かった。とくにマルコとQ資料においては、復活は再臨の基礎ではあっても、復活それ自体は関心の外にあり、関心はあくまで再臨と審判の終末であること。イエスの高挙は復活時ではなく再臨時として信じられていること。
さらにマルコにおいては、イエスの復活から再臨までのあいだ、イエスはあくまで不在なのであって、教会はイエス不在の寂しさに耐えつつ、生前のイエスの教えを彼の再臨の日まで信じ守る集団であること。だからこそ生前のイエスの奇跡や言行を大切に伝えていること。
一方、1コリ15:12で「死者の復活などない」と語る者にパウロは反論するが、パウロの論敵は復活を否定しているのではないこと。論敵はむしろ、第二パウロ書簡であるエフェソ2:4−6*1にあるように、イエスの復活によって我々もすでに復活し「終わって」いると主張したこと(第二パウロ書簡2テモ2:18*2をも参照)。だからパウロによる1コリ15:23*3の反論がある。つまり、復活にともなって救済も完了したのだという「救いの現在化」は、キリスト教発展の後期に生じたのではなくて、パウロ以前からあったのであり、パウロも、そしてマルコも、そうした救済の完成の神学には強く反対したこと。マルコにおいて復活したイエスの顕現の物語が当初なかったのは、そのような神学に反論する背景があったのだということ。
生前のイエス、その奇跡、そのメッセージ、再臨と審判、十字架と復活、先在のロゴスとしてのイエス・・・・それら多様な神学的関心は、最初から一つにまとまっていたのではないこと。それらは、生前のイエスとその死と復活の思い出から触発された、様々な側面であること。そうした諸側面を受け取ったそれぞれの信仰者集団が、次第にそれぞれの場において多様な神学を発展させたこと。それらが新約聖書形成にともない、互いに緊張をはらみつつも結び付きあい、影響し合って、わたしたちが現在信じているようなキリスト教信仰の基礎が形成されていったこと。そのようにスヒレベークはまとめている。まず新約聖書の完成、次いで教義や教理の発展、というのでなく、新約聖書の成立自体が、すでに教義発展の歴史ないし教理史を内包しているのである。

*1: “しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。”

*2:“彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。”

*3:“ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、・・・”