大胆な読み(こみ?)

本田哲郎『聖書を発見する』を読む。もうすぐ読み終わる。ガツーンとやられることの連続。マルコ福音書で、1:10−11において天が裂けて聖霊が降りてくる。逆に15:37−39では、神殿のたれ幕が裂けて、十字架のイエスが息を引き取る、すなわち彼の口から霊が吐き出されてゆく。本田はそこに、マルコの始まりと終わりの見事な対応を見る。そして、両者における「裂ける」(スキスマ)ことに、イエスが人々の本当の思いを引き出すために方々で起こした分裂(スキスマ)を結び付けている。とりあえず表面的に仲良くするのではなく、本当の対話を、真実の霊を引き出すためのスキスマを。
また、本田はレビ記19:15“あなたは弱い者を偏ってかばったり”の部分を、ヘブライ語ロー・ティッサー・プネー・ダールから再考する。つまり「するな─持ち上げることを─顔─低き者の」から。本田はこれを「弱者を依怙贔屓する」と訳すのは伝統的な偏りであり、弱者を保護しないことへの言い訳として役に立ってきた、と問題提起する。
わたしも手元の辞書で調べてみた。*1当該聖書個所の例示とともに、法的な用法としてのパニーム(顔)の、“to side with”、つまり、誰それの味方をする、という意味が載っている。俗っぽい言い方をすれば、誰それの顔を立ててやる、という意味だろう。だから、弱者の顔を立ててやるな→弱者の依怙贔屓をするな、という伝統的な訳になる。というよりも、そもそもこの辞書も、その伝統の上で、そのような意味を掲載しているのだろう。
本田はそうはとらない。足がよろよろしている弱くなっている者の顔を無理やり上げさせるな、ととる。そんなことを強引にすれば相手は転倒するではないか、と。不正な裁判をするな、弱りうつむいている者の顔を強引に上げさせるな、同胞を正しく裁け。本田はそちらのほうが文脈上自然であると解釈しているのである。
わたしは研究者ではないから、伝統的な訳が正しいのか本田が正しいのかは分からない。けれども以前たしかにわたしも、この個所を通読していて、なんで突然弱者を偏ってかばうなという表現が出てくるのか不思議に思っていた。弱者を偏ってかばうなど、よほど徳の高い善人でもない限りふつうしないだろうと。ふつうはそんなことをわざわざ禁じないだろうと。この時代に「過保護」などあったのかと。
それよりは本田が言うように、抑圧されて足もよろめくほどに弱くされた者が、さらに顔を上げさせられて、あるいは無理やり顔を掴み上げられ、苦しみや辱めを受けるということ、そういうことをするなよという意味の方が、前後の文脈にも合っているようにも思われるのである。

*1:Ernest Jenni, Claus Westermann, tr. by Mark E. Biddle, Theological Lexicon of the Old Testament Volume2, HENDRICKSON PUBULISHERS, 1997, 1001p.