絶対これしかない。そう信じるからこそ、あれにも通じる。

書斎で読書中。窓を開けているので、とおくから神輿の祭り囃子と拍子木の音が聴こえてくる。窓外を見上げれば天高くうろこ雲。連れ合いのおみやげのおはぎの後味。
小田垣雅也著、『一緒なのにひとり』、LITHON、2004を読了。最後の方で、臓器移植に反対の立場を唱える小田垣が、現実に移植を待っている人との静かな対話をとおして、
“しかしその自分の講義は、自分が臓器移植の必要のないところでなされていたのである。”
“論理や倫理は、また感性やアイデンティティーすら、存在論的矛盾の前ではひとたまりもない。これはわたしの自己の消尽点であると言える。元来、矛盾とは存在論的なもので、論理的水準の問題ではない。”(202−203頁)
と気付かされるくだりがある。これこそ彼のロマン主義の粋である。ある場があることへの気付き。その場そのものには決してたどりつけないが、しかしたどりつけぬ場、自己の消え去る場を、積極的に受け取り直そうとする躍動性である。彼は対話をとおして、自分の臓器移植反対の思想が揺らいだわけではない。自己の哲学・論理に照らして、あくまで彼は反対し続ける。しかもそれでいてなお、現実に臓器移植を待つ他者を前に、自己の絶対譲れぬ思想の絶対性の、しかも相対性にあることを、深く自覚し味わい直す。彼の言う自己否定の醍醐味がある。
“空想は現実を離れた単なる想念だが、憧憬はそれには達せられないが、しかし現実に力をもっているものだ。それだからこそ憧憬である。”(253頁)。
日常的にロマン主義と現実逃避とがセットのように語られ、ロマン主義の対立項として現実直視の美徳が繰り返されることの愚。現実とはそんな単純なものではないこと。むしろ自己の他者との関係性にあること、自我や自己は他者との関係性のなかで一度否定され、その限界を知ってこそ、その本来性を取り戻すこと。そうした気づきのゆたかさを、彼のロマン主義は声高な主張ではなく静かに語る。