体験への狭まり、体験への広がり

「いのフェス」いのり☆フェスティバル 教会・団体・企業・学校・サークル・個人のためのフリーマーケット
『いのフェス』に行って来た。それぞれのブースが工夫を凝らした出店をしており、買い物をしながらブースの人と意見を交わしたり、楽しかった。
そして、岡田斗司夫(作家、評論家)、吉村昇洋(曹洞宗僧侶)、波勢邦生(キリスト教)の三名による鼎談「カミとホトケと、時々、オタク」が、なんといっても聴きごたえあるものだった。岡田さんは「ふつうの(特定の宗教に属さない)日本人」の役割から、吉村さんと波勢さんを質問攻めにするというような感じだった。
最後の方で、システムとしての宗教を岡田さんがディズニーランドに譬えた。神の部分がミッキーで、そこに参加すればみんながハッピーになるシステム。誰もが迷信のなかで生きた古代ではないし、なぜ宗教でなければいけないのか、そこに参加すればハッピーになるというのであれば、ディズニーランドで十分ではないか、と。
これは面白い質問だった。もちろん波勢さんも「システム」としての地平から論駁を試みていたが、岡田さんが納得するはずもなかった。というのも、最終的には波勢さんにせよ吉村さんにせよ、宗教的体験に属するなんらかのぶれない軸があり、その体験とそれに対する解釈の積み重ねがあるのであって、それがエンターテイメントとしてのディズニーランドとおのれの信じる宗教との違いを分けている。しかしそれは「体験」であるため、完全には言語化し得ないのである*1。一方で岡田さんが把握しているのは、どこまでもシステムとしての宗教、体験抜きに、言語で説明し得る宗教なのだ。
そうは言っても、波勢さんにせよ吉村さんにせよ「体験しないと分からない部分があるから」と言ってしまっては、もはや岡田さんに対する説明を放棄したのと同じことになるからだろう。敢えてそうは言わず、なんとか真摯に言葉を重ねようとしていた。
吉村さんは「浄土真宗に先に出会っていたら、そちらに行っていたのかもしれない。自分が最初に出会って、しかもしっくりきたのが曹洞宗だった(だけ)」という主旨のことを語っていたが、そういう「出会い体験」というものは、「なぜ」という客観的カテゴリーでは語り得ぬものがある。 しかし語り得ぬからといって語らぬのでは、そもそも宗教は伝承され得ないだろう。話しても相手に理解されないかもしれないが、しかしその相手もまた、その人にとっての「体験」に出会うかもしれないという望みをかける。だからこそ、通じなくとも語り続ける。そのジレンマというか縮図を、今回の鼎談はとても濃縮して教えてくれたように思う。伝道とは何かをあらためて考えさせられる、ゆたかな時間だった。

*1:ブースの人たちがいきいきと話してくれたのも、制度としてのキリスト教よりもむしろ自己の体験であった。