さまざまな称号

引き続きスヒレベークに学び続けている。「メシア」の概念には基本、エッセネ派らの預言者的メシアとファリサイ派らの王的(ダビデ的)メシアの二つのイメージがあったこと。前者は未来志向(終末論)であり、後者は現代政治に幻滅したゆえの復古思想であること。それらが合流したり融合したりして、王的でもあり預言者的でもあるような終末論的預言者像としてのメシア像が形成されていったらしいこと。そしてぜんぜん別の系譜としての「人の子」。これがまたややこしい。ダニエル書〜エノク書における変遷が解説されており、今読んでいるところだが、先在者と審判者という別の概念が合流する、というような感じなのだろうか。こちらはギリシャ語を話すユダヤ人の思考法らしい。
それと、黙示思想といい、「世の終わり」といっても、聖書の時代の人たちは、地球が滅亡する式の現代的な世界滅亡のイメージなどさらさらなく、自分たちが生きているあいだに、新しい統治なり価値観なり解放や審判なりが始まると考えていたようだ。現代のカルト宗教が語るような世界滅亡は、「地球」という科学的理解を前提しているのだろう。
ヒレベークを読んでいると、イエスの時代の(旧約)聖書理解の多様さと、現代に「旧約聖書」を読む前提の圧倒的な違い、また、福音書そのものに内在する諸前提の現代における亡失を、あらためて思い知らされる。また、想像の幅が広がる気もする。たしかに礼拝での説教は古代の説明とは違うけれども、古代をまったく無視するのもまた違うような気が、あらためてしてきた。とくに「読み慣れた」、クリスチャンならだれでも知っているような聖書箇所を、「そんなん言われんでも分かっとる」というような陳腐なメッセージにしないために。
“実際には、旧約聖書が現在の出来事の解釈の源なのではなく、現在の出来事について(その重大性のゆえに)人々がすでに抱いており、ただし言葉でそれをうまく言い表すことのできないような見解が、聖書内の概念素材の利用によってはじめて、正確に文章化・定式化されることができたのだ、と。”E・スヒレベーク著、宮本久雄・筒井賢治訳、『イエス 一人の生ける者の物語 (第二巻)』、新世社、2003、291頁。
“しばしば、新約聖書の目的はイエスを「聖書(われわれにとっての旧約聖書)に従って」解釈することであって、ユダヤ教の「中間時代」の文献に従って解釈することではない、と指摘されることがある。形式的にはこれは正論である。しかし当時の聖書解釈(「カリスマ」的、預言者的聖書解釈)の原則ならびに実際の慣行を考慮するならば、この区別はほとんど無意味であることが分かる。当時、「聖書」と「聖書解釈(を記した書物)」とを区別することはほとんどできなかったのである(中世の神学者たちが聖書と教父の神学的な聖書釈義書とを一括してsacra pagina〔聖なる書物〕と呼んではばからなかったのと同様である)。”同書、297頁。