手のひらのうえ

このあいだの岡田斗司夫さんと吉村昇洋さん、波勢邦生さんの鼎談を思い出していた。岡田さんが要約して「仏教の中心には何もないが、キリスト教の中心には神がいる」と語り、「神は生物?どこにいるの?」というような質問もしていた。それで波勢さんとしては「神はおられるんです」みたいな答えになるので、平行線だった。
ところで、小田垣雅也のどの本で学んだか忘れたが、panentheismという言葉があるという。pantheismが汎神論であれば、panentheismは汎在神論、つまり、この世界のどこにいっても神の内部で、神の外には出られないという意味。そして使徒言行録17:28*1、あるいはエフェソ1:23のように*2キリスト教にもpanentheismの影響はあると。そしてここからは小田垣の解釈になるのだが、すべてのものが神の内部にあって神の外に出られない以上、神のなかで神を探し回っても、神は「存在しない」、つまり神の外側から、神を対象として客観視して、神を机や湯飲みのように「ここに在る」と把握することはできないというのである。
京都学派的な二重性の論理なのだろう。無いことにおいて在る、つまり日常的な対象認識レベルで言えば、たしかにまったく無いのだが、しかも在るというようなことがある、そう小田垣は語るのである。たとえば武藤一雄に言及しつつ、小田垣は“ホモ・ロゴス”を例示する。
立場の違うAとBとが対話する。お互い立場がまったく異なり、具体的に何らかの一致に至ることはない。お互い妥協しないし、排他的に自己の価値観を確信している。しかもAとBとは対話し、お互いを尊敬しあい、信頼しあう。そういうことが現実に起こる。彼ら二人は、AのロゴスとBのロゴスという意味ではそれぞれ別のロゴスを持っていて、それらが交わることはない。しかし、それなのに対話が成立するのは、無いことにおいて在る、二人に共通のロゴス、すなわちホモ・ロゴスがあるからだというのである。二人の見解は一致しない以上、ホモ・ロゴスはロゴスとしては存在しない。二人が共有するロゴスは無い。この「無い」場において、ホモ・ロゴスは生じていると。だから二人の対話は成立したのだと。
わたしは家が檀家で実質無宗教という家庭に育ったので、どちらかというと神の存在論において、そのような「無いがしかも在る」というような神観をリアルに感じている。そしてその話を、あとで吉村さんをつかまえて話したら、「それなら分かりますね」と共感して下さった。
波勢さんの応答はとても丁寧、かつ一つ一つの言葉における神学的な裏付けも的確で、じゅうぶんすぎるほどの司会者でありかつ対話者でもあったと思う。わたしのような神観は異端と誤解される危険もある。だからこそ彼は神の存在論に踏み込むことはしなかったのだろうし、あくまで西欧的な存在論理解に留まって話をしたのだろう。

*1:“皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。”

*2:“教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。”